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コミュニケーションなんてろくなもんじゃない/RYO

気がつけば無意識に自分を罰しているものだよ、ばかものだよ、もっと映画を観ても良いのだと、いつのまにか新宿のツタヤをここ8年ほど禁止していたのだなあと唐突に気がつき、箍が外れて幸福感万来、先月からせっせと通っているのです。

観た中で、蔡明亮監督の『西瓜』がありえない程よろしかった。

蔡明亮の映画の登場人物はとても高尚ではない、彼らは長いセンテンスを話せず、質問はできても何かを説明するという事が出来ない、単音節の返事、または返事が無い事で他人と関わるから、発生する不足分は彼らの身体が勝手に補っていく、彼らは常にぼんやりと発情している。

『西瓜』でもやはり、登場人物の高尚で無さは同じで、言葉もなく茫々と発情しているだけの登場人物達は、だからとても、なにも考えず、なんの情熱もなく、ただぼんやりと存在しているだけのように見えるけれど、その印象は、彼らが望む他人を求めるシーンで劇的に変化する。望む他人の身体に指が触れようとする瞬間の狂おしさに、彼らが抱え込んだ孤独が判明する。

彼らは強烈な衝動を持っていてもそれを表現する方法が分らず、欲動を他人と分かち合えない。映画の所々で挿入されるミュージカルシーンは、登場人物と観客の間では、彼らの欲動を理解する為の架け橋となるけれど、登場人物たちの間では欲動が共有されず、登場人物たちの人間関係になんの影響ももたらさない。彼らはお互いに、ミュージカルシーンとして成立する程の強烈な衝動を抱えたまま、それらを誰かと共有したいと切実に渇望したまま、ぼんやりと発情している。

主人公はAV男優で、しかも上記のような発情の仕方をしているから、自分の衝動の表出となってくれない仕事上の交接にうんざりとし、そのうんざりが侵食して、遂には望む他人との交接が欲動の共有へと向かわなくなってしまう。主役の男女はお互いに、打ちのめされるような強烈な孤独感を抱え、強烈な衝動を持ち、共有したいと望む他人がそばに居るのに、どうしてよいのかが分らない。

最後にはきちんと奇跡が起きまして。
衝動は、それ自身のままで他人に差し出すことはできず、もちろん現実世界でミュージカルは発生しないから、どんなに強烈な衝動も、現実にある何物かの形や行為を借りる事でしか他人と分かち合えない。
だから最後に起こる奇跡的なコミュニケーションでは、切実な孤独感が劇的に解消されるけれど、同時に、彼らの内部では強烈で純粋だった衝動が、現実の何物かの形を借りてしまったことで、現実に固定されてしまう。通った瞬間、コミュニケーションが劇的で奇跡的である程、あの衝動が、今まで自分を刺し貫いていた衝動が現実に固定されてしまったというショックは大きく、通ったという感動の中で人は同時に、そのショックに打ちのめされる。

そのようなラストシーンのあの様子、果たされたコミュニケーションの、格子ごしに突き出され顔に触れる指、先端が含まれ、差し出され受け止められ、打ちのめされ茫然のまま身動きもままならないあのろくでもない様子に、僕自身も打ちのめされてしまい、まだありえない程よろしい唖然の中。

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( 2007.12.01 ) ( 未分類 ) ( TRACKBACK:0 )
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