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川原泉に撥ねられる/RYO

7つ年上の姉が高校に入った頃から『花とゆめ』を購読し続けたので、僕は8歳から19歳まで、1985年頃から1997年3月に家を出るまでまでの間ずっと姉から借りて読んでたことになる。
川原泉の「パセリを摘みに」を、あれは小学3年の頃か、こたつで読んだのを覚えていて、恋の成就、というかお付き合いの為の切り札が、姉妹そろって深夜のパセリ泥棒っていうあのコマの、冗談なのか本気なのか分からない、甘ったるくもなければ苦くもない、上手く事が運んで恋愛成就となっても眉を顰めて途方に暮れてしまうようなあの様子、それまで同誌で「パタリロ」と四コマ漫画くらいしか読めなかったのに、なぜだか腑に落ちるように読んだ。

川原泉のマンガの登場人物たちには情念がある、あるけれど登場人物たちは情念の発露の為に性を利用しない。
性を利用しない事を原則として行動する人間は社会に困惑する。社会は人間をまず男女に分類し、そこを基礎にして価値を作り欲望を整理する。性が無ければ他人と深く関わることは出来ない、そんな風に出来ている社会で、情念の発露の為に性を利用しない人間が、それでも情念を通わそうと、性抜きでも他人と深く恒常的な関係を構築しようと格闘する、しかも登場人物たちの望むのは、穏やかな日常の幸福であるので、彼らはひっそりと格闘する、だから深夜に、眉を顰めて、姉妹がパセリを摘みに行く。

その様子、ひっそりさと、裏腹の大きな抵抗が、好きで、家を出てからも川原泉の単行本が出る度に買っていたのだけれども、去年出た『レナード現象には理由がある』を読んだ時、なぜだか悲しかった。悲しさの理由をずっと考えていて、最近やっと整理できたので書いておきます。

『レナード現象~』は高校が舞台の、性も恋愛も利用しない高校生カップルの関係が成立するまでを区切りとした連作短編なのだけれども、僕の悲しさの原因は男子高校生の描かれ方で、それも心理描写が!とかの話でなくて、もっと単純に外見の描かれ方で、ごついの皆、高校生とは思えない、オリンピック水泳の選手みたいな肩幅と胸板で、それがなぜ悲しさに繋がるかというと、対照的に女子の描かれ方は幅広く、同じ人物でも細かい線の立体的な造形で誰かを批判したかと思えば、突然平面的なやわらかい絵柄で誰かを心配する、情景に合わせて絵柄が千変する、女子だけ。
男子はどの情景でも絵柄が常にごつく固く硬直している。昔の作品ではそんなことは無かった。男子も、おっさんでも、情景に併せて自由に変化する絵柄を与えられていた。
つまり、昔は女子と同じやわらかい内面を与えられていた。今は硬直した内面しか与えられていない。

川原泉にとって、男性はもう、男の身体を持っている時点で硬直したなにかになってしまっているんじゃないか。男の身体の内面は、もう、彼女の感知する所では無くなってしまったんじゃないか。そんな風に思えてしまって、それが悲しい。

少女マンガの条件は、少女の身勝手な欲望を慰めることだそうだから、こんな30も近いおっさんが、それを読んで疎外されてると悲しがるのはとても筋違いなのだけれど、昔の川原泉の、『架空の森』みたいな物凄い作品を忘れられなくて、なんかちょっと、やっぱり悲しい。

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( 2007.09.03 ) ( 未分類 ) ( TRACKBACK:0 )
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